今度専門で行う発表の原稿。修正してないですけど晒しておきます。

第五弁論 講和について

1.弁論の概要
本弁論は前346年の秋に行われた民会での演説であるという説が一般に採用されている。しかし何故デモステネスがこの演説を作ったのか、そしてその時の状況あるいはいつの民会で行われたのか、はてはこの演説が行われたのかどうかについても不明確な部分があり、未だに議論が起こっている。ただし、この演説自体は今のところ行われていた可能性が高いと言われている。

2.弁論の構成
序論(1〜3節)―現在の情勢を鑑みて何をすべきか。
→現在の情勢に対する意見はてんでばらばらであるが、どうか私の提言を聞いてほしい。
本論(4〜23節)
1.陳述:エウボイア・ネオプトレモス・第二次使節団に関する提言は事実に基づいている。
→エウボイア出兵・ネオプトレモスの件に際して提言を行い、第二次使節団の時はペテンには関与していないし、見過ごしてもいない。これらのことから私が私利私欲によって演説しているわけではないことを理解してもらいたい。
2.勧告:講和を守り、全ギリシアを敵に回すな。(ここより本題)
→講和は締結されてしまった以上、破棄するべきではない。フィリッポスとその同盟国に口実を与えてはならない。
3.論証:フォキスの例に倣い、戦争は避けよ。
→回避すべきはアンピクティオニア神聖同盟が対アテナイ戦争を起こすことであり、それを引き起こす可能性のあるものは自粛するべき。
結論(24〜25節)―講和の存続による平和を維持せよ。
→戦争回避が一番重要であるため、アンフィポリスやオロポスの領有、ビュサンティオン人等とのいざこざを起こすべきではない。「それら全ての相手を向こうに回して戦いを挑むなど、常軌を逸した愚の骨頂というほかありますまい。」

3.フィロクラテスの和約
本弁論で重要なのはフィロクラテスの和約(以後和約と表記)である。前346年に十年来の戦争状態に終止符を打つべく結ばれたのがこの和約である。
前357年にアンフィポリスをフィリッポスがアテナイから奪取したことにより、マケドニア・アテナイ間で同ポリスを巡って戦争が勃発。以後アテナイ不利のまま事態が膠着する。その後の前348年秋のオリュントス陥落の際捕虜になったアテナイ人の解放交渉に始まり、折衝と双方の宣誓により前述の通り前346年に締結された。ただし、アテナイ側にとってはマケドニアとテバイが連合したことにより脅威となったことが要因となったようである。さらに和約の中身も、アテナイ・マケドニア両国同士の不可侵及び現状維持を確認し、双方の同盟国にも適用されるものであった。

4.アンピクティオニア神聖同盟及び第三次神聖戦争
アンピクティオニアとは同一聖地を共有する周辺地域の住民の宗教的・政治的同盟のこと。その同盟者会議をさすこともあり、今回の場合はデルフォイのアポロン神殿を中心とする同盟をさす。
?.構成単位:この同盟の構成単位はポリス(国)ではなくエトノス(種族)。12の種族から投票権を持つ代議員(ヒエロムネーモーン)が各々の種族から二人ずつ派遣され、同盟者会議を構成した。投票権は平等。さらに投票権のない演説者(ピュラゴロイ)が不特定数派遣されることもあった。
?.開催理由:この会議は四年目ごとにピュティア大祭とその競技祭を行う他に、同盟の事務処理や国際間の法律や宗教上の問題を解決するために開催された。
?.時期と場所:毎年二回春と秋に開催された。アンテラ(テルモピュライ付近)のデメテル神殿で始まり、デルフォイで結論が下された。ただし、臨時に召集されることもあったという。
?.第三次神聖戦争:前356年にフォキス人がデルフォイを占拠したことに端を発する戦争。翌年より主にフォキスと(当時神聖同盟の指導的立場にあった)テバイとの間で行われ、十年間ギリシアの主要ポリスが巻き込まれた。前346年フィリッポスによるフォキス陥落をもって終結。

5.フィリッポスの狙い
前359年の即位以来、フィリッポスは勢力を拡大してきた。和約交渉当時では東はトラキアを攻め、南のテッサリアもハロスを攻略中であった。そしてテバイからの要請でフォキスとの戦端も開いていた。
 ?.フィリッポスは追い詰められていたのか?
   →追い詰められていたから講和を結んだわけではない。
 ?.第三次神聖戦争に介入したのは何故か?
   →南部ギリシアへの侵攻路・影響力を得るため。特にフォキスが握っていたテルモピュライは南進するために押さえる必要があった。
 ?.同盟者会議加入や大祭の開催権はどのような意味を持つのか?
   →プロパガンダあるいは栄誉のために欲した。

6.デモステネスの考え
本弁論でのデモステネスの意見は以下の二点に要約できる。

全ギリシアを敵に回すな
その為には自重するべき

アンピクティオニア神聖会議がフィリッポスの支配下に入ってしまった以上、彼と敵対するのは得策とは言えない。ましてアンフィポリス・オリュントス等戦略上重要なポリスが陥落した以上、海軍力では優位に立てても陸上では対抗のしようがない。しかもテルモピュライをフィリッポスが握っているので、マケドニアとのアンフィポリス問題、テバイとのオロポス問題などは一時棚上げしこれ以上不利な状況を作ってはならない。アテナイが生き残るには講和存続以外に道はない。

7.考察
以上のことを念頭において本弁論について考えてみたい。この弁論がどのようなものなのか、以下のように私は考えた。
デモステネス自身は反フィリッポスの立場を貫いていた。フィロクラテスの和約を結ぶ際彼は使節団の中に入っており、その成立に深く関わっていた。しかし、蓋を開けてみればフィリッポスの取った行動はアテナイにとっては屈辱的とも言えるものであった。しかも和約はフィリッポスのみ圧倒的有利に働き、アテナイには何も生み出さなかった。事実を目の当たりにし、ともすれば対マケドニア開戦に踏み切りかねないであろうアテナイ市民たちを説得し、注意を喚起する目的でこの弁論を書いたのではないかと思う。それがこの弁論が彼のものにしては趣を異にすると評価されたのではないであろうか。

8.結び
デモステネスはアッティカ十大雄弁家の一人に数えられている。反マケドニアの急先鋒として様々な演説を残しているが、確かにこの弁論では趣が違う。しかし、修辞的に文章を構成しているのだろうが、納得させてしまうだけの彼の愛国的感情を十二分に伝たえてくる上、人を圧倒する存在感も有している。英語のDemosthenicとは愛国的熱弁(家)の、という意味がある。デモステネスという人物を表すのにこれ以上の言葉はないと思う。

参考文献
デモステネス『弁論集』第一巻
澤田典子「フィリポス2世の対ギリシア政策」:『史学雑誌』102-7(1993)
澤田典子「前340年代のアテナイ―マケドニア関係」:『西洋古典学研究』42(1994)
森谷公俊「前350年代前半のフィリッポス2世とテッサリア」:『人文学報』229(1992)
森谷公俊「前四世紀アテネの帝国化について」:『西洋史学』126(1983)
森谷公俊「第三次神聖戦争の勃発とテッサリア連邦」:『史学雑誌』104(1995)
池田忠生「前四世紀アテナイの政治と軍事」:『史学研究』134
小河 浩「前四世紀ポリス世界の軍事指揮官とピリッポス二世」:『史学研究』20(199)

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